完全犯罪!モナリザがルーブル美術館から盗まれた・・・【都市伝説】

モナリザ完全犯罪

都市伝説!モナリザがルーブル美術館から盗まれた・・・

最も多くの人々が目にしてきたであろう世界的名画「モナリザ」
ある日、捉えどころの無い微笑みを浮かべるこの絵が、
何者かの手によってルーヴル美術館から盗まれてしまったのです。
フランス中を騒がせたこの事件の裏には一体何が?そして、世界中が
諦めていた中、「モナリザ」はどのようにして戻ってきたのか?

けんちゃん

はい、どうも、あるごめとりいのけんちゃんと
やみやみ子でーーす!

闇病み子

けんちゃん

そろそろ芸術の秋ですけれども、やみ子さんは芸術とか興味あります?
興味も何も、私自身が芸術よ!

闇病み子

けんちゃん

究極の駄作!

けんちゃん

今回は、そんな芸術に関する完全犯罪
「モナリザ盗難事件」を紹介していきます。
この事件は、かの有名なフランスのルーブル美術館を舞台に起きた
全世界を揺るがす大事件でした。

最も強固なセキュリティを誇るルーヴル美術館。
それを欺く緻密に練られた驚愕の手口とは…?

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天才詐欺師・マルケス

事件が発覚したのは1911年8月22日。
画家のルイ・ベローは、モナリザの模写をするため、ルーヴル美術館に
訪れましたが、モナリザが展示されているはずの場所にあったのは、
額縁を固定する釘だけでした。

べローが美術館の警備員に
「巡回や写真撮影か何かがあるのか?」と確認した所、
この警備員は、「モナリザは宣伝に使用する写真撮影のために
移動させられているだけだ」と答えました。

それから数時間後、なかなかモナリザが戻ってこない事を不審に思った
ベローが、美術館の担当者に改めて確認することに。
すると、モナリザに写真撮影の予定など入っていなかったことが発覚
同時に、モナリザが盗まれたことが、そこでわかったのです。

世界最大の美術館から20世紀最高の美術品が盗まれたこの事件は、
たちまち世界中に広まり、ルーヴル美術館は、一週間閉館となりました。

そんな世紀の大事件を起こしたのは、この5人。
実行犯となった職人「ビンチェンツォ・ペルージア(以下ペルージア)」
同じく実行犯となった2人「ランチェロッティ兄弟」
偽物の絵を作る天才贋作家(がんさくか)「イブ・ショドロン(以下ショドロン)」
そして、偽物の絵を売る天才贋作(がんさく)詐欺師であり首謀者の
「マルケス・エドアルド・デ・バルフィエルノ(以下マルケス)」

マルケスらはどのような経緯で知り合い、どうしてモナリザを盗んだのでしょうか?

天才詐欺師マルケスは、アルゼンチン・ブエノスアイレスの裕福な家庭で
育ちました。親戚や知人など、彼の周りには同じく裕福な人たちが多く、
ステータスの表現や投資先として美術品に興味ある人が多かった為、
子供の頃から、よく美術品に触れて育ちました。

青年期のマルケスは、彼らからもらった美術品を売っては金に換えて
生活していました。しかし、手持ちの美術品の数には限界があった為、
次にマルケスが考えたのは、偽物の美術品を作り出し、
本物の作品として売る「贋作詐欺」だったのです。

この頃、すでに美術の世界に精通していたマルケスは、
ある1人の贋作家「ショドロン」と手を組むことにしました。
彼は、どんな画家の絵も精巧に描き分けられ、専門家にも判断がつかない
ほどの精度で偽物の絵画を作れる天才贋作家でした。

チームを組んだ彼らの仕事ぶりはこのようなものでした。
まずショドロンがスペイン名画の贋作を作り上げると、
美術界や社交界に顔の利くマルケスが話をつけて売りさばく。
当時、アメリカの富豪たちの間で美術品のコレクションが流行していた
事もあり、この贋作詐欺は次々に成功。
彼らは大金を儲けることが出来た、まさに最強のタッグだったのです。

そして、この頃あたりから、富豪たちの中には
「盗んだ物でもいいから本物が欲しい」
という人たちも出て来るようになりました。
マルケスはそういった要求にも応えるため、
ある手の込んだ詐欺を考えつきました。
それは…まず、あらかじめ客の欲しい絵を聞いておき、
その贋作を用意しておきます。
そして、出来上がった贋作を本物が展示してある美術館に持って行き、
そこで警備員を買収。その場に誰も入ってこないようにしてもらい、
その間に本物の絵の額縁の後ろに贋作を入れた額縁を貼り付けます。

その後、客と共に再びこの美術館を訪れ、その客が欲しいという絵が
この美術館に展示してあることを確認させます。
そして、またも警備員を買収し、絵の周りに誰も来ないようにしておき、
その間に客に額縁の裏へ何かの目印を書いてもらいます。
この時、客は気づかぬ間に贋作の入った額縁の方に目印を書くのです。

後日、裏に貼っておいた贋作の入った額縁をはがして回収し、
客のところへ持って行って目印を確認してもらい、
美術館に展示してあったものだと納得させて買わせれば完了。

この手品のようなテクニックにより、富豪達は次々に騙されていきました
が、その誰もが絵が偽物だとは考えもしなかったのです。

マルケスはこの方法で、さらに多くの大金を稼いでいきました。
そしてついに、あの絵にその毒牙を向け始めるのです

警備員がお金で簡単に買収される時点で、
もうセキュリティボロボロじゃない

闇病み子

けんちゃん

たしかにそうですよね。
で、やみこさんついに、天才マルケスがとうとう
あの絵をターゲットに定め始めるんですよ
あれね、ナスカの地上絵ね

闇病み子

けんちゃん

盗めるか!

標的となった『モナリザ』




1910年の秋、マルケスは活動拠点を変える為、フランス・パリに
引っ越しましたが、この地にきて早々、ある大計画を思いついたのです。
マルケスが目をつけたのは、そう、ルーブル美術館のモナリザでした。

同じ年の末、マルケスはショドロンと共にルーブル美術館を訪れ、
モナリザを前にしてショドロンにこう聞きました。
「どうだね?これと全く同じものが描けるかね?」

突然の質問にショドロンが一瞬、返事をためらっているとマルケスは、
「それも一枚ではなく、何枚もだ。」と続けました。ショドロンは、
「はい、十分な時間さえあれば出来ます。でも、一体どうしてですか?」
と答えました。

なぜ、マルケスはモナリザの贋作を何枚も書いてもらおうと考えたのか?

マルケスは今までに何回も行った、絵に目印をつけさせて安心させる
方法を説明し、「この方法を使えば、君が描くだけ全部売りさばける。
買った連中もそれが盗品だと思っているから口外はしない。
それぞれが、自分だけが本物を持っていると思っているからな。」
と語ったのです。

しかし、ショドロンは、
「ルーブルには毎日モナリザを見に何千人もの人がやって来るんですよ。
こんな世界的な名画を盗んで来たなんて言ったって、
信用するお客なんていませんよ。」と答えました。

これまでの絵画だったら、本当に盗難したかどうか信じ込ませるために、
「絵が盗難にあった」と新聞に偽記事を載せておけば信じてもらえ
ましたが、これほど知名度のある絵画だとその程度の嘘は通用しない。
ショドロンの考えは当たり前の答えでした。

すると、マルケスから衝撃の言葉が飛び出したのです。
「そう、今度ばかりは嘘は通用しない!
誰かが本当にモナ・リザを盗んでくれないとな。そして、世界中の新聞に
『モナリザ盗難』と派手に書いてもらう必要がある。」と…。

その日からショドロンは、モナリザの贋作作りに取り組み始めました。
その製作には膨大な時間と手間が掛かったそうです。
毎日ルーヴル美術館に通っては、モナリザの前で模写を続けたり、
古美術商を周っては、モナリザと同じサイズのパネルを探したり、
これらのパネルからナイフで元の絵を削り取って白紙の状態にしたり、
モナリザの製作技法を完全再現する為に、古本屋を周って
ルネサンス時代の画法に関する資料を集めて読み尽くしたり…などなど。

こうした努力の末、ショドロンは6枚の贋作を完成させました。
そして、次にマルケスの出番です。

マルケスは、目星を付けた富豪たちをリストアップし、
北アメリカで5枚、ブラジルで1枚売る契約を整えました。

そして、贋作とは言え、本物のモナリザを盗んだ後では税関の検査で
怪しまれてしまう為、あらかじめ売る予定のそれぞれの国に
贋作を持ち込んで保管しました。

買い手も決まり、後は実際にルーブル美術館にある本物のモナリザを
盗めば6枚の贋作は即座に売れる段階となったのです。

そしていよいよその日が近づいてきます。

けんちゃん

ここまで先を見据えて計画を立てられるマルケスって
やっぱ天才ですよね。

 

私の愛は誰も盗んでくれない

闇病み子

けんちゃん

だろうな!

けんちゃん

世界最高の作品「モナリザ」を相手に、壮大な計画と準備を進めてきた
2人ですが、いよいよ、計画の実行が近づいてきました。

計画実行当日

準備も佳境に差し掛かった頃、マルケスは、
モナリザを盗む実行犯は、ルーヴル美術館に詳しい人間がベストであると
考え、内部に工事で入ったことがある職人を探しました。

そして間も無く、パリ19区にある労働者たちが集まるカフェで、
ルーブル美術館のガラスケース工事を行った事があり、
内部の構造に詳しいという職人、ペルージアとランチェロッティ兄弟の
3人と出会い、話を持ちかけました。

3人は、マルケスに提示された報酬金額を聞くとすぐに、
盗みに加担することを承諾。
その後、計画を練り、何度もリハーサルを繰り返し、
着々とモナリザを盗む計画を進行していったのです。

かくして決まった運命の実行日は、1911年8月21日。
この日はルーブル美術館の休館日であり、週に一度の館内修理の日でも
ありました。当日は美術品が移されたり工事器具が入ったりして
館内が散らかった状態となる為、そのドサクサにまぎれて盗み出そう
という計画でした。

しかし、計画に予断のないマルケスはここでも、犯行に失敗して3人が
逮捕された時のことを考え、自身の本名も住所も教えず、さらに、
計画前日と当日の盗みそのものは完全に彼らだけに任せて、
自分は離れた場所にいました。

実行日の前日8月20日、ペルージアとランチェロッティ兄弟は
ルーブル美術館を訪れ、閉館間近まで中を散策。

ルーブル美術館の内部に詳しい3人は、館内にあった小さな倉庫が
警備の目が届きにくい場所である事を知っており、
前日からその倉庫の中に隠れて潜入しておく考えでした。

そして閉館間近、計画通り倉庫内に隠れた3人は
ここで一晩を過ごし、翌日の実行本番を待ちました。

翌朝、午前6時半。ルーブル美術館の門が開かれ、10数人の職人達が
入って来たタイミングで、3人は職人達と同じ白い作業着に着替え、
彼らの中に紛れ込む事に成功。

3人はそのまますぐモナリザに近寄づいて壁から外し、ペルージアが
上着の中にモナリザを入れ、そのまま堂々とルーブル美術館から
立ち去ったのです。

マルケスの読み通り、この日ルーブル美術館で働いていた職人達の中で、
モナリザが壁に掛かっていない事を怪しむ人はいませんでした。

そして、翌日、画家のルイ・ベローがモナリザの行方を確認した事から、
ようやく事件が発覚したのです。

100人以上の警官が動員され、守衛や前日に入っていた職人たちにも
事情聴取が行われましたが、確たる証言は得られず…。
警察は国外への持ち出しを警戒して国境を封鎖し、駅には検問所を設け
ましたが、ここでもモナリザは見つからず…。

この事件を知ったマスコミが大々的に報道し、フランス中が大騒ぎ。
「ルーブルには元々本物のモナリザなどなかった。」
「モナリザは上から別の絵に塗り替えられ、すでに国外に流出した。」
「盗んだのは国際的なスパイ組織で、
拘留されている仲間を釈放するならモナリザを返すと言っている。」
などおよそ見当違いの噂が乱れ飛びました。



そして警察は、犯人として当時無名だった詩人のギヨーム・アポリネール
と、その友人で画家のあのピカソの2人を誤認逮捕してしまったのです。

なぜ、彼らが逮捕されてしまったのでしょうか?

当時のパリには芸術家のタマゴたちが多く集まっており、駆け出しの頃のあのピカソもその1人でした。アポリネールはそうした無名芸術家たちの
親分のような存在でした。

捜査の初期段階で、そんな親分肌のアポリネールの家に居候していた
友人・ピエネという男に窃盗の疑いがかかったのです。
ピエネは窃盗の常習犯で、4年前にループル美術館から彫刻を盗み、
ピカソに売りつけた前科があったのです。

以来、ピエネはしばらく行方が分からなくなっていましたが、
1911年4月に再びアポリネールの元で居候し始めました。
しかし、ピエネがまだ盗みをしていることに腹を立てたアポリネールは
彼を家から追い出したのです。
そして偶然にも、この日がモナリザの盗難の前日だったのです。

運の悪いことに、その少し前、アポリネールとピエネが駅で親しく
話しているところを友人に見られており、この証言から当然疑いが
かかりました。

そして、アポリネールは逮捕され、2日後には疑わしい美術関係者と言う
理由で友人であるピカソも逮捕されたのです。

結局、証拠不十分で2人は釈放されましたが、
このことは2人の心の傷となりました。

ここでまさかのピカソが出てくんのね笑

闇病み子

 

けんちゃん

まさかですよね笑
何の証拠もないピカソが捕まるくらいなので
犯人への手がかりは依然何もなく、
このままモナリザは永久に失われるかと思われてたんですけど
なんと2年後に、
ある事がキッカケでモナリザは無事戻ってきたんですよ

え?モナリザが自分で?

闇病み子

けんちゃん

犬か!

マルケスの怠慢とペルージアの暴走

ペルージアたちが盗んで来たモナリザを前に大喜びしたマルケスは、
3人に大金を渡し、9月中旬、富豪たちに贋作を売るため、
北アメリカへ行きました。

贋作を売る計画を知らないペルージアたちは、マルケスが勝利の旅行に
行ったと思い、その間ランチェロッティ兄弟の1人のアパートにて
モナリザを大切に保管しました。

ペルージアは「いずれ、このモナリザに買い手がついて、
その時にはマルケスはまた俺たちに大金をくれるはずだ。」と信じ、
ひたすらマルケスからの命令を待っていました。

一方、その頃、北アメリカでは、マルケスが持って来たモナリザを
本物であると信じた富豪たちが惜しみなく約束の金を払いました。

契約していた6枚は全部売れ、マルケスは日本円にして
合計40億円ほどの大金を手に入れました。

大計画も無事終了し、マルケスは、このままアメリカにもフランスにも
帰らず、警察の追求も来ない北アフリカで過ごそうと考えました。
そして、マルケスはペルージアに、また指示を与える約束を忘れ、
結局ペルージアと本物のモナリザをほったらかしにしてしまったのです。

マルケスからの連絡を1年以上待ち続けていたペルージアは、
最初にもらった金をギャンブルなどで全て使い果たしていました。

そして、いつまでも連絡してこないマルケスに段々と腹が立ってきた
ペルージアは、もうマルケスは無視して、モナリザを売り、自分の金にする計画を立て始めました。

モナリザ盗難事件から約2年後の
1913年12月の始め、ペルージアはイタリアのフィレンツェの古美術商
であるアルフレード・ジェリにモナリザを鑑定して欲しいという内容の
手紙を出しました。

モナリザの作者・レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリア人なので、
フランスが奪い取ったモナリザを、イタリアなら秘密裏に買ってくれる
とペルージアは考えたのです。

そして、同年12月12日、ジェリは、ペルージアと会い彼が持ってきた
モナリザを自宅に持ち帰り、念入りに細部を調べました。

そして、驚きと共に本物のモナリザであると鑑定したジェリは
すぐに警察に連絡し、ペルージアはあっさりと逮捕されたのです。

モナリザ発見のニュースは世界的に報道され、最終的にはルーブル美術館
に返されることになったのですが、その前にイタリアの各地で展示され、
どこも大勢の人々に熱烈に歓迎されました。

そして、ペルージアの監獄にはイタリアの人々から花やワインなどの
差し入れが次々と届き、マスコミも彼のことを「モナリザをイタリアに
持ち帰った英雄」などと報道して、
ペルージアはちょっとしたスターとなっていったのです。

こうして、ペルージア自身もすっかりご機嫌となり、
裁判でもペルージアは、「自分がモナリザを盗んだのは愛国心からで
あって、決して金が欲しかったわけではない!」と力説。
裁判も事件の真相を解明したり、彼を罰しようという雰囲気は希薄で、
共犯のランチェロッティ兄弟やマルケスのことにはほとんど触れず、
裁判は終了しました。

結局、ペルージアは裁判で七ヶ月の拘留を宣告されましたが、
逮捕から七ヶ月と9日が過ぎていたのでその場で釈放されました。

一方、マルケスは、ペルージアに本名も行き先も教えていなかった為、
安心して逃亡生活を過ごしました。

こうして、モナリザ盗難事件は、ペルージア以外の犯人が逮捕されない
まま収束したのでした。

ちなみに今回お話したモナリザ盗難事件の真相は、
マルケスが友人である新聞記者に語ったものになります。
マルケスは、1921年に死亡し、
その翌年、彼が語ったこの事件の真相は公表されたのです。
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